高千穂にいた頃の自分

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    今にして思うと、私が13歳から15歳くらいまで、
    父の運転する車について回り、宮崎県北部から熊本の阿蘇地方、
    ときには山深い諸塚
    に至るまで、ドライブしていた時の楽しみを超えるものを




    いまだに見いだせていないのでは
    ないかと思う。

    高千穂から五ヶ瀬までの高千穂峡を挟んでの道のり、
    そして、蘇陽峡から馬見原にかけての美しい高原地から見えた阿蘇の遠景までを。

    またあるとき、ふと私たちの車のフロントガラスに現れた
    息をのむような、諸塚の山の一面の紅葉の風景を、私は決して忘れないだろう。

    明治大正期の俳人である種田山頭火をして”分け入っても 分け入っても 青い山”
    と表したような、美しくも深い山々がそこにはあった。

    私はその多感な時期、FMラジオのエアチェックで手に入れた
    アメリカやイギリスの
    ヒット曲を、思うがまま勝手に助手席のカセットに入れたり出したりして
    家族のドライブミュージックを我が物としていた。

    あまり聴き疲れしないものを並べるように心がけてはいたが、

    ある日、好きだったシンディーローパーのマネー チエンジズエブリシングの
    ライブ音源をかけてみたら、彼女独自の、ちょっと耳に触るようなシャウトに父は
    好まなかったようで、頭がおかしいんじゃないかと(おそらくシンディーが)、
    苦言を呈していたものだった。

    その頃の音楽少年はみなそうだったと思うのだが、

    公共放送のFMラジオにむかしクロスオーバーイレブンという番組があった。

    その番組では曲を頭から後ろまでそっくりかけてくれるし、

    曲目も放送前からぴったり決まっていて、FM誌(という物が昔はあった)に
    掲載されてたので、それを見て夜11時になるとラジカセの前に座って
    録音ボタンを押して、さらにPAUSEボタンを押して今か今かと
    待っていたものだ。そんな日々だった...













    あしたの場所

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       製作中のニューアルバムから、
      この曲は、2012年の春ぐらいに思いついて、ここ1年ぐらいかけて
      録音したりmixしたり、またしばらく放っておいたりして、
      ようやく最近完成しました。

      ピアノはもちろんソフト音源なのですが、苦労しながら自分で弾いて録音しました。
      ほんと時間あればピアノも練習したいのですが。。なかなか難しいです。

      ソウルっぽい雰囲気がでていればいいなあ と思っています。

      アニくんはどんな猫だったのか(アニくんの3.11)その2

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        続き

        夕方になり、アニの事はいったんあきらめて、三陸沖や仙台の惨状を
        テレビやラジオで知るにつけ、私は近所の方々の姿を求め、
        隣に住んでいる高齢のお婆さんの部屋をノックしてみたり、

        マンションのロビー付近に出てきている人たちに声を掛けたりしていた。

        夕方に近づき冷えてきた中、マンションから降りてきて余震を
        避けている人々の中には、飼っているインコを巣箱ごと毛布を上からかけて、
        じっとしている人もいた。





        ラジオからは津波の様子が伝えられて、それはそれは恐ろしい地震だったことが、
        だんだんと分かってきたのだった。

        僕のいるマンションの向かいの薬屋さんのお兄さんに声をかけてみると、地震の時
        ちょうど僕のいるマンションが強く揺れているのを目にして、これはきっとマンション
        が壊れると思ったという。

        それから僕は行きつけのパン屋さんにも行って地震の話をしていた。


        そして夜になった。

        僕はアニは見つからないことで一人でいることが嫌になり、
        さらに余震の恐ろしさから、6階のマンションよりは近所の平屋の
        ラーメン屋さんのほうが、たとえ余震が来たにせよきっとましだろうと思い、
        行きつけのラーメン屋さんへ行って
        少しアルコールを取りながら食事をとることにした。

        店内はすでにたくさんお客さんがいて、地震の話をしていた。

        電車が止まっていたので、カウンターで一緒になった方は、
        どうにかこうにか自転車で都心から帰ってきて、たまらず多摩川を
        渡る前に食事を取ることになったと言っていた。

        結局、ラーメン屋さんを出て部屋にもどったのは21時ごろ
        だったのではないか、そしてまたアニを探し始めた。

        しばらく探したのち、ようやく見つける事ができたアニは、
        部屋の壁と家具の隙間のほんとに狭い、こちらからは容易には手の届かない
        空間にいたのだった。

        アニに私は、「出ておいでよ、少しご飯を食べたらどう?」みたいな感じで
        声をかけてみた、そしてちょっと背中のあたりをさすってみたのだが、

        決して出てこようとはしませんでした。

        私はあきらめて、せめて昼から何も食べたり水をとったりしていない
        アニのために、カリカリの入った皿とお水を傍らの狭い空間に置いてあげたの
        だが、それにも手をつけようとはしなかった。

        結局アニは、翌日の早朝に運転再開した電車に乗って帰ってきた
        妻が部屋にもどってきてからしばらくして、ようやく出てきたのだった。



        アニくんはどんな猫だったのか(アニくんの3.11)その1

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          2011年の3/11 私はたまたまお休みで家にいました。
           何かすっきりしないものを感じていて、パソコンの前に向かって何かをやっていた
          のですが、あまりはかどりませんでした。

          愛猫のアニは傍らにいて、地震がきたとたんに動き出し、そこらを走り始めました

          思えばあの地震はとても時間が長くて、おそらく3分近く続いたと思います。
          最初はちょっとした地震だろうな、すぐに止むだろうと思っていたのですが、

          私の住んでいる築40年のマンションの6階は何度か強い揺れに襲われ、
          あまりの時間の長さに、これ以上強い揺れが続いたらと思えば、
          生命の危険を感じるほどでした。



          アニはとにかく走り回って、彼なりに強い恐怖の中で必死に逃げ場所を探して
          いたのでしょう。

          その後30分ほどで、すぐに震度5近い大きな余震が起こりましたが、もうその
          前後から、(思い返せば1度だけ、ひょっと出てきてお互い顔を見合わせた
          ような気もしますが)

          アニは、かなりぐちゃぐちゃになった部屋のどこかに隠れてしまい
          翌日の朝まで、出て来る事はありませんでした。

          私は、仕事のため外出していた妻と連絡を取り、
          そして、妻に私とアニは元気だよ大丈夫だと伝えるために、アニの姿を求めて
          部屋中を探しまわりましたが、

          結局2〜3時間かけても探しても、部屋のどこかにいるはずのアニの姿さえ
          見つけることができませんでした。

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